No.019 2024/10/28 3回目の個展を終えて
個展「Nature Fiction」10/19〜10/27(10/22休館)を無事に終えることができました。
約2年ぶり3回目の個展となりましたが、やはり良い意味で慣れないものです。慣れてはいけないとも感じました。
作品も違えばご来場者も違うので、前回までと同様の繰り返しと思っていてはいけないな、と。
なので今回も新鮮な気持ちで、色々なことを学ぶ一期一会の大変良い機会となりました。
制作の段階では「良い作品が描けている」「この作品があれば安心して個展を迎えられる」などと自画自賛しながら非常に前向きな気持ちで進めることができておりました。
とはいえ、あくまでも作品一点一点の「点」での自己評価なので、それらが展示会場で並ぶことで「線」そして「面」になった時にどう見えるのだろうか、そしてお客様にどう受け止められるのだろうかという不安はちゃんとありました。
同じ作品であっても会場の雰囲気や一緒に並ぶ他の作品によって見え方が全く異なり、より良く見えることもあれば腑抜けてしまうこともあるということをこれまでに経験してきたためです。
会期を迎えて実際に作品が並べられ、思っていた以上に良い見え方をしていたと思えましたし、そしてお客様にご覧いただいてご評価いただき、今回も期待以上の成功と言えるものとなったと感じております。
「Nature Fiction」というテーマを掲げ(これまでと似通ったテーマではあるのですが)、その一本筋をブレることなく追い求めながら準備を進めてきた成果だと自負しております。
そして当然ながら自分自身の力だけでは成し得ないもので、ご協力くださる方々、足を運んでご覧いただく方々、ご支援くださる方々、陰ながら応援してくださる方々あってのもので、暖かく見守っていただけることに改めて深い感謝を感じております。
大きな反省点としては、制作が間に合わずに未完成品を展示することとなってしまったことです。
「
四神・時空一体(No.2)」は3日目まで着彩途中の未完成状態での展示、4日目でようやく完成品の展示
「
Roots Bowl - るつぼ」は未着彩でペン画での完成品として展示
お客様に未完成であることを告げると「未完成とはとても思えない」「着彩前でもここまで描き込むのか」「着彩後どうなるか楽しみ」等、ポジティブな反応をいただくことができ、反省点であると同時に良い学びにもなりました。
しかし結果的に良い方に転がったからと慢心することなく、あくまでも反省点として自身を戒めていく所存です。
一段落したところではありますが、公募展への出展予定や来年のグループ展の予定、再来年の東京での個展の予定など既に目白押しです。
勢いを落とすことなく持続して取り組んでいきたいところです。
が、この1年程は根詰めて制作に取り組んでいたため自分の殻に閉じこもりがちになってしまっていたところもあるので、アクティブな面も身につけて制作や考え方にもより幅を持たせていきたいと思います。
課題は山積みですが、これも伸びしろであると前向きに捉えていければ。
No.018 2023/06/24 SaiEn展を終えて
自身で主催するのは初めてとなるグループ展「SaiEn展」6/12〜6/18(6/15休館)を無事に終えることができました。
会場は私の実家となったのですが、今秋に現住所の桐生市から前橋市の実家へ出戻ってアトリエを構える予定となっておりまして、
そのために用意しているスペースが今なら使えるということで、ギャラリーを特設して敢行することになりました。
このグループ展のテーマは「再炎」と「再縁」。(婚姻的な意味での再縁ではありません。)
大学を卒業して12年が経ち干支が一周した節目に、同級生と共にその当時の制作にかける初心を思い起こして再奮起しようというコンセプトです。
その中で私個人のテーマとして、過去2回の個展において商売としての画業を勉強する機会となったのですが、
今回は一旦そういった目的に捉われず、自分の根幹となる作品を見ていただくことに重きを置いた展示会にしたいと考えました。
また、
前回の個展後に次回への不安やハードルが高まっていると漏らしましたが、以降の活動内容は既存作品の加筆作業やリメイクに追われ、
新作と言える作品は数点しか生み出すことができておらず、年内に同等の個展を開催することは難しいとの判断に至りました。
そういった事情も含め、画業を初めてからの約4年半の集大成としての展示にすることとなりました。
その意味での目的は十分に遂げることができ、作風に関して人それぞれ好みはあるかとは思いますが、ご来場者にも恵まれ説明を加えながら関心を持っていただくことができ、
賛同してくれた仲間も準備も含め熱意を持って楽しんで貰えたようで、十分成功と言える展覧会となりました。
私自身、過去作を改めてまじまじと見返す機会にもなり、今に至るまで進歩を続けてきたという自負はありますが、
過去作にも過去作なりの気迫や魅力があるということを確認でき、ここまでの軌跡を誇れることができました。
実家での開催ということでご近所の方々もお見えになったのですが、お会いするのが幼少期以来という方もいらっしゃり、そういった「再縁」もありました。
過去を介して今を見つめるということが元々目的だった訳ですが、想像以上に過去が今に作用しているということを感じました。
「今を生きる」ないし「未来を生きる」が人生の本分であれど、「だから過去を振り返る必要はない」ではなく「そのためにこそ過去の回顧も必要」と私は常々考えており、
それを改めて実感することができた、大変有意義な展覧会となったのです。
No.017 2022/10/04 2回目の個展を終えて
2回目となる個展「Active Nature」9/23〜10/2(9/27休館)の9日間の会期を盛況にて無事に終えることができました。
前回の初個展は、正直言えばあまり自分に自信がない段階で望んだ個展でした。
それ以前よりご評価くださる方々もいらっしゃいましたが、多少なり忖度もあったり、あるいはまぐれで当たりの作品を生み出せただけというのも感じていたからです。(ネガティブではなく戒めとして。)
しかし実際に前回の初個展を経て、想像以上の反響やご好評をいただき、それが大きな自信となりました。
そして自信を得て迎えた今回の2度目の個展を余裕で迎えられたかといえば、全くそうではありません。
というのも、前回は恐らく前評判としてのハードルがかなり低いところでそれを大きく超えられたのであろうことを自覚しており、
すると今回はハードルが一気に高くなると想像していたからです。
更に、前回は専業で絵を描き始めて約2年半の集大成として開催に至ったわけですが、
今回はそれから約1年と3ヶ月、つまり半分の時間で形にしなければならないというのは大きな重圧でした。
それ故か、前回の個展から今に至るまで、制作にほぼ全てを費やしてきたような日々だったと感じております。
もともと自然を散策をするのが好きで今の作風になっているわけですが、
制作に従事しなければという強迫観念に捉われ、この期間は自然に触れる時間を作れず(物理的にというより精神的な問題で)制作に専念してきました。
今回の個展も私なりに十分成功と言える成果を出すことができました。
そしてその成功も、自分だけの力では得られることのできないものだということは絶対に忘れないようにしたいです。
多くの方に宣伝していただいたり、お花や手土産を頂戴したり、作品をご購入くださったりと、手を差し延べてくださる方々あってこそですし、ご来場いただけるだけで大変光栄なことだとしみじみ感じております。
この勢いで、といきたいところですが、次回への不安感、大きなハードルは既にかなり高まっております。
今現在の引き出しの大部分を出し切ってしまっており、次回までに自分の持てる限られた裾野をどこまで広げられるかが勝負となると思うからです。
しかし、前回から今回までに十分にできなかった自然散策という私にとって根底となる糧が残されていますし、
今後の自分がなんとかしてくれるだろうと、他力本願であり自力本願でもあるなんとも言えない感覚が意欲を掻き立ててくれております。
今は「どうなるか楽しみだ」と、他人事のように捉えているくらいが丁度良いかもしれません。
No.016 2021/11/20 3年間の道のり、選んだ道
3年が経ちました。
この道を進み始めた当初、3年間の間に芽が出なければ諦めて再就職を考えなければと思っていたリミットが遂にきました。
前回のTopicの通り、既に辞めるという選択肢は捨てていますが、現状と進んできた道のりを振り返るべきタイミングだと思いますので、そのことについて語ります。
始めた当初、もしかしたらとんとん拍子に日の目を見て売れっ子になるかもしれないという妄想もしましたし、鳴かず飛ばずのまま終わるのかもしれないという覚悟もしておりました。
その想定の振り幅の中、現在7割くらいの位置にいると感じております。中央値の5割で及第点ですので、間違いなく十分な手応えです。
経験を積みながら、私なりに作風や方向性は見定めて歩を進めてきております。
美術に限らずどの分野においても同様かと思いますが、創作物に独自性を出して奇抜にすることは簡単で、しかしそれが良いモノであるとは限りません。
さも意図がありげに見せながらコンセプトは説明せずに鑑賞者へ丸投げし、実は作者自身は何も考えていないというのは結構ありがちなことだと思っています。
鑑賞者は理解できないから畏敬の念を抱いて評価しなければならないかのような、言葉を選ばなければ「ズルい手法」だと思うのですが、美術という分野においてはことさら横行してしまっているように感じております。
私自身、まだ1年目の頃はそういった方向にも手を伸ばし、
「地球を絞ってみた」という作品で前橋市民展において奨励賞をいただき、当時まだ何も肩書きを持っていなかったので救われた面がありました。
しかし、その先にどんな道が繋がっているのかはモヤがかかっていて見出せず、進んでいきたいとも思えず、そうこうしているうちにコンセプトをしっかり組み立てて表現する作風でご評価をいただけるようになり、その道を進もうと明確に思えるようになりました。
芸術を理屈頼りに突き詰めていくのはいかがなものかと思わなくはないですが、私は感覚・センスだけで極められるようないわゆる天才肌のタイプではないので、自分の強みは何だろうかと考えた結果それがベストだと判断し、そして私自身がやりたいと思えることでもあります。
今現在の反省点としては、特に今年は予定を詰めすぎた感があります。
始めのうちはとにかく経験してこそだと思い、手当たり次第にやってきました。
「出来た作品をどこに出展しようか」が徐々に「出展が決まったからそのための作品を描こう」になっていき、それが続いてキャパシティを超えるオーバーワークになってしまいました。
そして出展したはいいものの、出展会場へ出向くこともできないような状況が続きました。
そうすると今度は当然ながら充実感を失っていくのを感じました。
更に言えば、
前々回のTopicで述べたような「インプット」を得られておらず、作品を新たに思案する時間も取れず、既存作品をリメイクするような作品が続き、しかも不完全な状態で出展するような状況が続いてしまっています。
こうなってしまっては本末転倒だと痛感しましたし、ガムシャラに突き進む段階では既にないと思うので、来年2022年こそは取捨選択してゆとりを持ちながら制作活動にあたっていけたらと考えております。
何か大きな賞や抜擢を受けて大ブレイクを果たしたいという野心は持ちつつも、堅実に現状維持+10%くらいを目指し積み重ねながらやっていきたいと思います。
No.015 2021/06/21 初個展を終えて
制作活動を始めて2年半が経過したところで初挑戦した今回の個展でしたが、6/12〜6/20(6/15休館)の8日間の会期を無事に終えました。
あっという間に過ぎてゆく日々だったようにも思えますし、しかし振り返れば毎日が濃密で長かったようにも感じられ、なんだか不思議な感覚です。
個展を開催するというのは大きな山でありかなりの覚悟をもって挑んだもので、終えて今はこれからまた普通の日常に戻るのかと思うと安堵する反面、一抹の寂しさも感じております。
個展の成果と致しましては、想像以上に多くのお客様にご来場いただき、想像以上に多くの作品がお客様のもとへご縁をいただくこととなり、大成功と言えるものとなりました。
会期中は常時在廊していたのですが、普段は一人暮らしで家に篭って制作し、全く誰とも会話しないまま1日を終えることのほうが多い日常を過ごしていたので、それとは真逆の日々は非常に刺激的でした。
そういう場に身を置いてきちんとコミュニケーションが取れるかとても不安でしたが、お客様との対話はもちろん、会期前の6/10に思いがけず
ラジオ出演させていただき、そして新聞の取材、月刊誌「美術の窓」の取材もあり、それぞれ自分なりには十分にできていたと自負しております。
これまでは自分の力を頼りに活動しているようなつもりでおりましたが、今回の個展を経て、宣伝していただいたり、沢山のお花や差し入れをいただいたり、そしてご来場いただき口コミでも広がっていき、多くの方々にご協力いただき支えていただいていることを実感できました。
そういった他者のお力を借りて成り立ったものであることはもちろん疑いようのないことなのですが、
自然(そして逆説的に人間、社会)をベースに実存しない景色を構想して描写し、更に作品のテーマを示す詩や文章も添えるという手法はこれまでずっとこだわりを持ってやってきたことで、それが多くの方々の心に届くものだということがわかり、
自分自身がこの2年半を通じて培ってきたものが間違いでなかったということを確認できたのも非常に大きな収穫です。
これまでの2年半は「その先に道が繋がっているかはわからないけど、とりあえず自分を信じて突き進んでみる」ということでやってきましたが、それが思っていた以上に拓けた道に繋がっていたのだと認識できた次第です。
描写だけで完結させないのはもしかしたら絵画作品としてズルいとも言える表現方法なのかもしれませんが、それでも観る方がより深く味わうことができて気持ちにより寄り添うことできるのであれば、それで良いと考えております。
芸術とは自己満足で完結するべきでなく、エンターテイメントという在り方で成り立っていると考えるからです。
さて、実はこの活動を始めた時点で、3年間のうちに思わしい成果が出なければ再就職を考えなければと思いながらこれまで活動してきておりました。
そして今回の個展を経て、これからも絶対に続けたいと決心を新たにしました。
先に述べたように自身の方向性の答え合わせができた一方で、実はあまり自信のなかった作品にも多くのご支持いただいたということもあったことで更に可能性が広がったように感じ、もっと色々と試してみたいとも感じました。
どういう作品にニーズがあるかをある程度掴めたとも思いますが、しかしそこに執着して自分というベースを損なった途端に作品に価値がなくなるということも承知しておりますので、基本的なスタンスは崩さずにいきたいと考えております。
ご来場者との会話の中で、ご指導いただくような面もありまだまだ未熟だと痛感することもありましたが、だからこそまだまだ伸び代があるのだとポジティブに転換して、これからも精進して頑張りたいと思います。
現在の自分の良い面も悪い面もきちんと自覚した上で進む道を見据え、更に先へ進んで行きたいですね。
No.014 2021/05/20 2年半のビギナーズラック
新型コロナウイルスの影響で展覧会の中止や延期も相次いでおりますが、この春夏は非常に充実した活動内容となっております。
もともと予定していた企画展の出展に加え、公募展の入選、そして本日発売の
「美術の窓」6月号でなんと3ヶ月連続での掲載となり、これは予想だにしていなかった状況です。
それだけに努力や時間など様々なものを注ぎ込んできたことの現れではありますが、やはり多くの方にご評価いただき支えていただいていることを実感し、深く感謝を感じております。
そしてこの勢いの中で、いよいよ来月に初個展を迎えられることにとても幸先の良さを覚えております。
本日で2年半、これまでの私の活動はほぼ「ビギナーズナック」で成り立っていたように感じております。
そう呼ぶには客観的には乏しい成果かもしれませんが、しかし実力以上に稀有な可能性の中にある好機を得て、そして良き選択をしてこられたと考えております。
これから深みへ進んで行くにあたり選択肢も更に多岐に渡っていくかと思いますが、取捨選択をうまく見極めていきたいですね。
具体的に「ビギナーズラック」を象徴するのが、ともに1年目に手掛けた
「森の飢饉」「Brain Branch」で、未だにこれらの作品が私の中で二本柱となっているわけです。
2年半活動を続けているうちに、妥協することが難しくなってしまい、より細かく正確な描写をしないと納得がいかず、面積あたりにかける時間がどんどん増えていってしまっております。
この二本柱はがむしゃらにやった結果、手間と完成度の間の丁度良い中庸(需要と供給における均衡価格のような位置)で仕上げられ、今の技量では逆にこれらを産出するのは難しくなっており、まさに「ビギナーズラック」なのです。
そして個展開催にあたり私が名付けた「超自然散策」の作風も既にこの時点で始まっているわけですね。
「ビギナーズラック」の力は意図して取り返せるようなものではないので、今後はこれまでに身に付けてきたものをうまく生かしてステップアップしていけたらと思います。
今現在、私が自分自身の能力的なものとは別に不足していると感じているものが「インプット」、外から取り入れる刺激や情報です。
以前は頻繁に自然散策に出かけており、そこから「インプット」するものが非常に多かったのですが、昨年夏の天候不順やそれ以降の過密スケジュールによって「インプット」が足りておりません。
それでも滞りなく多数の「アウトプット」(制作)ができ続けているのは自分自身でも驚きで、着想力や制作意欲が向上していることを感じておりますが、だからこそここらで大きな「インプット」ができたらより良い「アウトプット」ができるのではないかと思うのです。
「アウトプット」を止める時間を設けるというのは単純にその時間分の作品の数や質が減るわけで、それに見合う対価が得られるかもわかりませんし、「アウトプット」の連続が習慣化している今の私の意識にどう影響するかもわからないので当然リスクは付きものですが、このあたりも先に述べたように取捨選択になってくるのでしょう。
これからは自分自身を「ビギナー」とは呼ばない区切りを付けたいと思っておりますが、
とにかく今は、未来への不安より楽しみが大きいですね。
No.013 2020/11/20 2年と10年
フリーで活動を始めて2年が経ちました。
当初はこんなにも絵画をメインにやっている想定ではなく、広く浅くマルチに活動している予定だった(実際にデザインや映像などで仕事をいただき細々と多方面で活動してはいます)のですが、想像以上に絵画での評価をいただけるようになり、想定外にイベントにお誘いをいただきながら課題を与えられて構想を練り、コンペ受賞や海外展示など想像以上に実績を積み、何より予想以上に楽しく活動ができている現状です。
一方で「これはいける!」と満を持した作品でも思うような成果を得られないようなケースもありふと現実に引き戻され、“二歩進んで一歩下がる”くらいのペースで進んでおります。
学生時代は漫画家やCGデザイナーを夢見たりして、しかし今思えば本気で目指して努力していたとは思えず、それでもWEBデザイナー(という名目の総合職)として就職して約7年半勤めました。
そして2年前に会社を辞めフリーで活動を始めるにあたっては何でも良いからとりあえず制作で仕事ができればと漠然と考えておりましたが、現在は決して妥協ではなく本気で絵画をやりたいと思い活動ができていることに大きな喜びを感じております。
まだ生活できるような収入は得られている段階ではありませんが、着実に手応えを感じ始めております。
そんなこんなで、来年6月あたりにいよいよ個展を開こうと考え、今から構想を練っております。
活動を始めてから初個展のタイミングとしては恐らく相当遅いものと思いますが、自分なりに人様にご足労いただいても良いと思えるようなレベルの作品をようやくコンスタントに生み出せるようになったと思い、まだまだ発展途上ではありますが経過報告できる段階に至ったと思ったわけです。
会期までは半年以上先のことですが、既に時間が足りるか不安になるほどにその以外の予定も詰まっています。
さて、タイトルにある“10年”ですが、これは私が現在の活動をするきっかけとなった
「森の夜 ~Your Story~」の制作からの年月です。
この作品は、当時私が推量する自身の能力を遥かに凌駕した出来栄えで生み出せた作品でありながら、未完成のまま発表することとなり、時間を置いて客観視するようになってしまってからは手を付けることさえできなくなってしまった無念の至上作品です。
これが自負心と心残りという相反する両面の意味から現在のモチベーションに繋がっているもので、この作品がなければ私が現在の活動をしていなかったのは確実です。
とは言うものの、既にこの作品の呪縛からは解かれ、全く意識することなく制作活動ができているのもまた事実です。
しかしこの作品が持つ意味は私にとってあまりにも大きいので、ここできちんと終止符を打ちたいと思い、別途完成させた作品を初個展で発表したいと考えております。
それ自体はもちろん自己満足でしかないですが、それを経て拡がる視野もまたあるのではないかと考えております。
とにもかくにも、この道を突き進むことに疑問や不安を持たずにいられており、将来的な展望も見出せているというのが、2年経過した今の素直な感想です。
No.012 2020/05/20 1年半の躍進
世の中、新型コロナウイルスの影響のことで話題が持ち切りですね。
私への影響はと言いますと、出展を予定していた展覧会が中止になったり延期になったりとありますが、私自身は現段階で下積み期間としていて稼ぎを重要視しておりませんので、大打撃を受けているという程ではないです。
経済面もそうですが、自宅待機となって精神面での悪影響を受けている方も多いようですね。
私は普段より自宅に蘢って制作活動をしているのでその点での影響は無いのですが、この活動を始めて間もなくの
No.002『表現の目的』の頃の精神状態に似通っているものと思いますので、それが今になって共感できるところが大いにあります。
これを前フリとしておいて語るには少々気後れがありますが、私が活動を始めて本日で1年半になり、ちょうど軌道に乗ってきた感覚があり、とても充実しております。
前回のTOPICで、二科展に入選した
「森の飢饉」が月刊誌「美術の窓」に掲載していただいたと書きましたが、同作が更に年間の選抜作品集である
「現代日本の美術2020」にも掲載され、そのご縁からご愛顧いただき本日発売の
「美術の窓」6月号の特集にも載せていただくことができました。
そして、つい先日
第1回日本文藝アートコンペティションにて最優秀賞をいただいたことが私にとって非常に大きな快挙となりました。
これまで様々な公募展・コンペに出展してきて、受賞を逃したり落選したりと思うようにいかないことのほうが多かったのですが、その全てが報われた気がしております。
単純に最高位の賞をいただけたからということではなく、受賞した
「Brain Branch」は前回のTOPICでもお話した通り、アートイベント会社からお誘いいただくきっかけとなった作品だからということも深く関係しております。
それがこのような実質的な結果にも繋がったというのは私にとって大きな意味があるのです。
その会社からその後も様々なイベントへお誘いをいただいており、私の現在の活動の基盤にもなっているのですが、それが依存という形でなくいわば共存といった感覚なのです。
No.004『コンセプトと価値』で書きました通り、私はコンセプトをガチガチに固めて、それを理解してもらいたいという欲があり、必ず制作意図を言語化するようにしています。
出展する作品を構想する際、イベント会社の担当の方とコミュニケーションを取りながら進めているのですが、私のやり方に賛同をいただけており、更にコンセプトを完璧にご理解いただき共感もしていただけているのです。
これが私の制作スタイルとして成立していてるのだとはっきり認識できた訳なのです。
「Brain Branch」は私の中でも最もコンセプト重視の作品であり、これがこのように二度に渡り大きな好機を得られたということは、私のスタイルが通用し得るという確かな自信になり、希望が強く持てました。
私はモチーフも技法(ペン画、油彩、アクリル、水彩など)も一貫性なく手広く手掛けておりますし、なんなら絵画以外の制作もしております・・・。
極めるには遠回りになりそれが弱点になってしまうのではという不安もあったのですが、コンセプトの確立こそが私の一貫した手法とすることで、表現する手段は作品ごとのテーマに合うものを選択できるのということはむしろ強みだと、今では思えるようになりました。
いずれは行き詰まるかもしれませんが、行けるところまではこのスタイルで押し進めたいと思います。
もちろん、どこに辿り着いたとしても慢心はすることなく、常に向上心を持っていたいですね。
No.011 2019/11/20 1年経過して
私がクリエイターとして活動を始めてから本日11/20で1周年となります。
直近で公開したアクリル画作品
「親水老樹」は今の私自身を描いたものかなと思いました。
それを意図して制作した訳ではないのですが、今こうしてTOPICに記す内容を考えながら自分の現状を振り返ると、ふとそのように感じたのです。
その話は順を追ってまた後ほど。
さて、すっかり久しぶりのTOPICとなりました。
サボっていたと言えばそうなのですが、このサイトのアクセス解析を見る限り、積極的にTOPICを記すことが今の私の活動にプラスにはならないと判断した次第です。
いずれ私の活動の方向性や注目のされ方次第では力を入れたいと思いますが、ひとまずはこうした節目などに記すことにしました。
本題に入りますが、半年前の
No.009『この半年間』では「思うような実績を得られず半年が過ぎてしまいました」と書きました。
しかしその後、8月の終わりに二科展に入選した時を境に一気に風向きが変わりました。
その二科展での入選が選考基準からいくとやや特例だった(詳しくは書けません)と話を伺いましたが、それを通して様々な方々に認知していただき二科の作家さんよりお声掛けをいただいたこと、
9月にプロミュージシャンの方からWEBデザインの依頼をいただいたこと、
同じく9月にアートイベント会社の方が偶然私のサイトにアクセスされ、作品を高評価をいただいたことで、来年・再来年と2件のイベント展への出展が決まりました。
そして、お恥ずかしながら昨日11/19に出版社より現物が届けられて初めて知ったのですが、月刊雑誌「美術の窓」11月号(10月発売)に二科展の中から選出され私の作品が掲載されました。
これらは1年目にしてなかなか得難い実績だと認識しております。
二科展の作品
「森の飢饉」、アートイベント会社の方にご評価いただいた作品
「Brain Branch」、いずれも制作に入る前の構想の段階から確かな手応えを感じていており、惜しげなく魂を注いで制作した作品です。
まだまだ技術的に拙いのでいずれもイメージ通り100%の仕上がりには遠く及びませんが、それでもこのように信念と魂とがうまく合わさった時、(不遜な言い回しになりますが)人様の琴線に触れうる作品を生み出せるところまできたのだと実感することができました。
しかし慢心は致しません。実力的にもそうですし、状況的にもできません。
私が今居るのは流動的で地に足がついておらず、本来なら立っていることすらできない所です。
(平たく言えば、生活できるだけの収入がありません。しかし会社員時代十分に貯蓄していたので今のところ無理なく暮らせております。)
それが冒頭で話しました
「親水老樹」と私自身とが重なるところです。
周囲からは心配されたり嘲笑されたりしていてもおかしくありませんが、そんな境遇にいられることを私自身はとても恵まれていると思うのです。
もし今後地に足がついて安定するようになったなら、今のように自由ではないでしょう。
ですから、今はこの状況からの打破を目指しつつも、同時に今の状況を存分に愉しむことにしています。
これが1年が経過した今の私の到達点です。
No.010 2019/07/02 美術と音楽
「芸術」「アート」という言葉からまず連想されるのは美術か音楽でしょう。
書道、文学、演劇なども芸術として分類されるようですが、ここでは美術と音楽の違いについて語りたいと思います。
美術は主に視覚に訴える「空間芸術」、音楽は主に聴覚に訴える「時間芸術」と区別されますが、そういった概念的、学術的なことはさておき、それらに対する私たちの在り方について考察してみました。
私は決して造詣の深い人間ではありませんので、僭越な見解になることは予め断っておきます。
「絵画(美術)を見ると癒される」「音楽を聴くと癒される」、いずれも成立すると思われますが、
リラックスしたい、モチベーションを上げたいなど、気分を変える時にするのは美術作品を観ることよりも音楽を聴くことのほうが多いのではないでしょうか。
また、レストランではBGM(音楽)がかかっており、絵画(美術)が飾ってある場合が多いです。
いずれも“その場を彩る”ものではありますが、もしそれらが無かった場合(それ以外の条件が同じだとして)の影響とすると、絵画の場合は特に違和感ないでしょう。
一方、BGMが無い場合では閑散とした雰囲気、あるいは食器のカチャカチャとした音が響き渡り、聞き取れないガヤガヤした話し声も耳に入り、多少なり居心地の悪さを覚えることでしょう。
そして恐らく大半の人は鑑賞のためにお金や時間を使う対象は美術(作品を買う、美術館に行く)より音楽(CDを買う、コンサートに行く)のほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。
私は美術側の人間ですが、鑑賞に費やしているのは音楽のほうですね。
音楽の方が日常生活に根付いていると言えそうです。
ところで私は美術館に行く際、「知っている作品の実物を観るため」よりも「知らない作品に初めて触れるため」という目的に重きを置いています。
美術に携わる者としてあるまじきことだと我ながら感じているのですが、画集やネット検索などで既に観たことのある作品を実物で観たとしても、改めて感動を覚えるということが少ないのです。
絵画であれば細部の描写、微妙な凹凸、色の映え方など、彫刻であれば違う角度から見た形状、質感など、コピーや写真からは十分に読み取れないものもありますが、それを求めるのも根っから心酔している作品でない限り・・・です。
逆に、コンサートなどで触れる実物の音楽は、知っている曲のほうが興奮の度合いは高いのではないでしょうか。
CD音源とは微妙に違った(悪い意味ではなくズレた)演奏・歌唱の音程やリズム、アドリブなどといった聴覚の違い、それに加え演奏する姿や演出、観衆の熱量など(後半は音楽的要素ではないですが)も加わるわけで、既知のものとのギャップが楽しめるわけです。
違ったテイストの実物が楽しめる訳ですから、実物を目の当たりにする感動の観点からも、美術より音楽に軍配が上がってしまいそうです。
一方、義務教育の観点から。
音楽の授業では定められた曲を、教育目的はどうあれ実情としては楽譜の通りに演奏したり歌ったりすることが求められています。
美術(図画工作)はテーマや手法は定められるものの、個々の発想や技法の工夫が求められ、完成作品は十人十色となります。
もし同列に扱うのであれば、音楽に合わせて美術も既存の作品の模写をさせる、
あるいは、美術に合わせて音楽も作曲や編曲をさせる、ということになるでしょう。
創作することの難易度が大きく異なるとは言え、美術のほうが義務教育においては全員が自分なりの表現を体現しているので、踏み込んだことをさせていると言えます。
美術と音楽のどちらのほうが優れている・劣っている、高尚である・低俗である、ということでは決してないのですが、需要や実情など、以上のような違いがあると考えています。
最後に、芸術活動に携わる人間として感じることなのですが、
複数の作品が一堂に会した場合、美術は優劣に関わらずたとえ一瞬でも鑑賞者の視覚を捉えることができるもの、
対して音楽は一度に一作品しか鑑賞できずしかもそれなりの時間を拘束してしまうため、もし優れた作品だとしても鑑賞者の耳に触れることすらできない可能性があるもの、
という大きな違いがあります。
しかも美術作品はその一瞬で優劣をある程度評価することができますし、音楽作品は一瞬で評価することはできません。
平たく言えば、全く無名の私でも美術のコンテスト(公募展)に応募すれば審査員によって観ていただいた上で評価を受けることができますが、
音楽の場合それなりの段階を踏まなければ聴いてももらえずに落選してしまうものだということは想像に難くありません。
No.009 2019/05/20 この半年間
昨年11月20日に前職を退き、今の活動を始めてから半年が経過しました。
これから綴ることに対して誤解を受けてしまいそうなので予め断っておきますが、私は今現在もポジティブな姿勢で活動を続けられております。
この半年を振り返り、率直に言えば「思うようにいかないな」です。
どうにかなるだろうと安直な考えでこの世界に飛び込んだ訳ではもちろんありませんが、
やると決心した際、すぐに成功を収めて順風満帆にいく妄想はしないはずがなく・・・要はそのギャップですね。
といったように現状と原因を俯瞰的に見ることができているので、自分では健全だと思っています。
また、会社勤めしていた頃は複数のタスクを同時進行でこなすことを得意としていたと自負しているのですが、現在は一番気持ちの赴くことに囚われて他のことが進められない気質になってしまったようです。
環境が変われば当然なのかもしれませんが、どうやらまだ自己理解が浅かったみたいです。
1つずつ進めようが複数を進めようが、結果的に費やす時間は上下するものではないのですが、思うようなペースで進まなかった場合に「あれもやったしこれもやったし、まあこんなもんだろう」と自分を誤魔化すことができなくなるんですね。
かといって、その労力を1つの作品に全て集約して没入出来ている訳でもなく、それも相まって日々の成果にはちょっと悲観してしまうところがあります。
ちなみに言い訳のようですが、本サイトで紹介している作品が私の手掛けているものの全てではありません。
しかし「思うようにいかない」というのは必ずしもマイナスなことばかりではありません。
すぐに制作のアイディアが尽きてしまうことも想定していた(それならそれで営業・プロモーションに力を入れる予定でした)のですが、
この活動を始めてからアイディアがポンポンと浮かぶようになり、制作したいイメージの湧くペースが作品の仕上がるペースより上回ってしまっており、消化できずにフラストレーションを覚える程です。
まだまだ活動初期の段階なので、早熟で凝り固まってしまうよりは断然に良い傾向だと思っています。
そして幸か不幸かわかりませんが、そんな状態であっても1つ1つの作品に手を抜くことなく、むしろ今まで以上に丁寧に作り込んでいける落ち着きも手にしました。
何にしても、思うような実績を得られず半年が過ぎてしまいました。
引き続き当面は実績を作ることが目標ですね。
自主制作でやっていくにしても、制作依頼を軸にやっていくにしても、人から認めてもらえないことには成り立ちません。
「人(社会)に認められなくてもいいから自分なりの表現を突き詰めたい」という思いがあるとすれば、一見美学的なようですが綺麗事でしかないので、そこにすがったり陶酔したりことのないようにと戒めを。
No.002『表現の目的』で書いたことと重なりますが、この“逆信念”(とでも名付けましょうか)は私の中でブレてはいけないものとなっています。
独自性を持つことは必要不可欠ですがそれは手段として、あくまでも目的は評価を受ける、収入を得ることとしていきます。
そういった対価が先立つのはアートに携わる人間としては逆に異端なのかもしれませんが、私は現実主義的にいたいと思っております。
それが私にとって武器になると信じて。
No.008 2019/05/09 ジェッソと油性ボールペン
先日、
「Brain Branch」という作品を公開しました。
制作意図としては当作品のReflectに書き記した通りなのですが、こちらでは制作過程における画材に関しての考察を綴りたいと思います。
タイトル通り、「ジェッソと油性ボールペン」を使用したのですが、事前にこれらに関する情報をネットで検索してみたものの、有用と思えるものは得られませんでした。
そんな中で制作を進めたのですが、この組み合わせは好ましくないという結論に至りました。
直近の作品
「森の飢饉」ではジェッソと油性ペン(極細サインペン)を使用しておおむね差し障りない(注意点としてはジェッソ表面へのヤスリの掛け具合で描き味は大きく変わる)と感じ、
同じく油性でより細かい描写のできる油性ボールペンでの制作にあたったのですが・・・
描いた上から他の箇所を描写する際の手のストロークによってボールペンのインクが擦れるという惨事を招いてしまったのです。
そもそも油性ボールペンは筆圧を下げると紫っぽく薄くなるのですが、当作品で使用したのは三菱のジェットストリームという商品で、筆圧を下げると接地面積が減って細くはなるものの、色合いは変わらない優れものだと紙に書(描)いている分には感じていたのですが、支持体がジェッソとなると話は違いました。
このように、従来の油性ボールペンと同様に、擦れて薄まったところが紫色を呈しています。
もともと油性ボールペンで描き上げた上から着色する予定だったので、この時点ではあまり気に留めず進めました。
ところがです。
下絵の描き込みを活かすために水で薄めたアクリル絵具を塗ると激しく滲んでしまったのです。
本当は線に沿って細かく着彩したかったのですが、それに合わせて塗りも意図的に滲ませたかのような雰囲気を出して誤魔化しました。
また、背景の色を鮮やかにするつもりはなかったのですが、重ね塗りを繰り返してしまうと下絵が更に滲んでしまうと思ったので不本意ながら留めることとなりました。
ジェッソを塗らずに木面のまま同じ油性ボールペンの上から水彩絵具を着色した
「沈水」においては全くこのようなことはありませんでした。
もう一点、今回用いたジェッソとアクリル絵具はともにリキテックスで正当な組み合わせのはずなのですが、背景にアクリル絵具で模様を描写した上から水多めで薄くベタ塗りしたところ、これまた流れてほとんど消えてしまいました。
→
ジェッソは炭酸カルシウムが主成分で多孔質のためインクをキャッチはするものの、定着性は低く、水分によって剥がされそのまま流れて広がってしまう、ということなのでしょう。
このジェットストリームという商品は染料と顔料の混合ということで、いずれかが適合していないというのが原因と考えられます。
「森の飢饉」における油性ペンは染料なのですが特に擦れたり滲んだりしなかった(但し意図的に水分は用いていない)ので、油性ボールペンでも商品によっては問題ないのかもしれません。
あるいは、今回のように油性ボールペンの上から薄塗り、アクリル絵具同士でも薄く重ね塗りをするのなら、パネルの木面そのままか、紙を水張りするのが望ましいようです。
No.007 2019/04/04 美術とエンターテイメント
美術はエンターテイメントであるか否か。
今の私が語るにはちょっとテーマが壮大なので、論述というよりも「こうありたい」という自身の意思表示であると予め断っておきます。
エンターテイメントをどう定義するかにもよりますが、美術はエンターテイメントでしかないと私は考えます。
というのも、美術品は生活必需品でないが、需要と供給によってビジネスとして成立している娯楽的なものだと言えるからです。
(ただし、デザインや工芸のように、日用品であったり情報伝達に特化した分野は除外するものとします。また、戦争や政治等を批判する風刺的な作品も毛色が異なるでしょう。)
芸術に造詣の深い方からすれば、エンターテイメントという言葉の響きが低俗に感じられて嫌悪感を禁じ得ないかもしれません。
漫画やイラストレーション、フィギュアのようなサブカルチャーと言われるようなものと芸術とを分断して捉えたいというのもわからなくはないです。
しかし、ジャンルのいずれが優れていてもう一方が劣っていると論ずるのは間違いだと思います。
芸術を娯楽とは異なる文化だと主張するのは、そうしておくことで高尚に見られたいという見栄やエゴだと感じてしまうのです。
もし優劣をつけるのであれば、ジャンルの優劣ではなく、いずれのジャンルに属していても作品そのものの質の優劣で競うべきことです。
私は絵画や漫画、映像などジャンルに拘らずに(ある意味、節操なく)手掛けていますが、いずれでもエンターテイメントと割り切って制作しています。
つまりは、観る(読む)人の目を意識している訳です。
人に認められることを目指している訳です。
私は食べていけるレベルでは到底ありませんが、私自身のこととは無関係に、そもそも需要がなければ職業として成立していません。
人に求められる(=エンターテイメント)ものでなければ容易に淘汰されるので、「人のために制作する」という姿勢は当然ですね。
現時点で私は稼ぐというよりも、まだまだその前の段階、スキルを高めるために尽力しているところですが、今後どのような道を辿ろうとも、人目を意識し、エンターテイメントとして制作していきます。
間違っても「自分のために制作をしていても人が金を落としてくれる」(成功した場合)もしくは「評価する人間が芸術に理解がない」(うだつが上がらない場合)などと傲慢な思考に陥りたくはないものです。
いずれのジャンルであっても良いので、もし需要が生まれるならその分野でやっていこうと思っています。
良い意味で、人に媚びていきたいですね。
No.006 2019/03/08 目的地への道のり
私はやりたいと思い立ったらきちんと技法を学んで基礎を固めることなく、すぐに実行に移す癖があります。
そしてそれなりのものが仕上がるとすぐに自己陶酔する癖があります。
そんな折り、“ホンモノ”に出会うと、自分の立ち位置からそこまでの道のりの険しさを思い知ります。
ですが、そこに至るまでの正規の道を辿ろうとは思わないのです。
そんな風に我が道を進んでいると、無知が故に大小様々な失敗することも多々ありますが、その経験を経て自分なりの正しい道を見出すことができるのです。
失敗しないようにとマニュアル通りのことをやっていたのでは技法は身に付いても自分なりの表現力は伴いません。
技法が身に付いて基本ができてから自己表現へと応用していくのが普通だとは思いますが、
私は根が真面目過ぎるところがあるので、その基本が備わる頃にはガチガチに凝り固まってしまい、マニュアル以上のことはできなくなっていると思います。
まだ“目的地”に辿り着いたとは到底言えないので、私が進んでいるのが近道なのか遠回りなのかはわかりません。
“目的地”までは様々な道筋があって、私とは異なる道を選んだ人がいても、私はそれを決して否定することはありません。
しかし私のやり方こそが私にとっては正攻法なのだと信じています。
自分の力だけで道を歩んできたかのように語ってしまいましたが、決してそんなことはありません。
幼少期から家族から教わったこともあれば、造形教室や学校教育での学び、美術の予備校に通って大学も美術系へ進みました。
様々な方々からの教えを受け、それらが根底にあります。
その基盤があってこそ、未知の道を進もうと思っても行く先を照らしてくれているのだと思います。
そしてこれからも一人だけの力で突き進めるとは思っていません。
もし今後、“目的地”に辿り着いたとしても、傲り高ぶることなく、感謝の気持ちは忘れないようにしたいですね。
過去に固執する私だからこそ、それは間違いなくできると確信しております。
No.005 2019/02/20 『解放と固執』
No.001『固執と解放』に相対して『解放と固執』です。
あらゆる固執に解放されてからも固執していた
「森の夜 ~Your Story~」からの解放を求めて描いた
「森の飢饉」を公開しました。
制作してきた経験、興味関心、私がこれまでに培ってきたものの多くをこの作品に込められたかと思います。
会社勤めしていた頃、制作の分野とは別に、何万点ものデータを管理する業務を担っており、その途方もなく地道に作業していた経験も活かされています。
こうしてこのような作風として成り立っていきましたが、結果的に経験を積む前に制作した
「森の夜 ~Your Story~」に回帰してきたのはとても意味のあることで、全てが無駄ではなかったのだと確信しました。
これからも意図的にこの作風に固執していくつもりです。
新たに課題も見えました。
「森の飢饉」のReflectでも失敗したと書き記しましたが、全て足し算で築き上げていくことで「あちらを立てればこちらが立たず」になってしまい、終わりが見えず、無理矢理終わらせなければならない妥協が生じてしまう訳です。
私の性格上、簡単なことではないと思いますが、これからは引き算の美学も学んでいきたい所存です。
反省点も多いですが、今回のこれはこれで良かったと思っています。
ちなみに1日中家に居ても制作時間は5~6時間が限度でした。
失敗したくない気持ちが大きく、制作時間以外に、考えに考えながら描き進めることで考えるのに費やした時間もあれば、集中力が切れて休憩にあてる時間も多かったのです。
そうなることを見越してエスキースも入念に描いたのですが、結局その通りにはできなかったのも原因の1つかと思います。
先を見ずにひたすら制作に没頭できたら良いとも思うのですが、これも私が様々な経験してきた中で形成されたものだと思うので無理なのでしょう。
短所ではなく長所と捉え、そのスタンスに見合った制作をしていけたらと思います。
今後同等の規模の作品を描くとして、時短に、神経もすり減らさずに進められるスキルを身に付けていきたいですね。
No.004 2019/01/25 『コンセプトと価値』
私は自分の作品を観ていただく以上、コンセプトを理解してもらいたいという願望があります。
ただ、鑑賞者を惹き付ける作品でなければ理解を求めること自体が傲慢だと思うので、押し売りはしないように気を付けてはいます。
もし興味を持っていただけたらきちんと説明したい意図があり、本サイトGALLERYの作品にはSkitとReflectionをそれぞれ載せています。
Skitでは作品のコンセプトを暗示する詩文を、Reflectionでは制作の意図や経緯、反省点などを説明的に書き記しています。
そもそも芸術作品に意図やコンセプトが必要なのか、賛否があると思います。
私は絶対的に必要だと考えます。
例えば、制作に関心の無い人が何も考えずに適当に殴り書きしたようなものがあったとして、「これが芸術だ。」と言えば、芸術作品になってしまうと思います。
その作品に「どういうコンセプトがあるのか?」と問われて、「捉え方は人それぞれだ。コンセプトを求めること自体が間違いだ。」と答えたとすれば、崇高な作品のようにも見えてしまうでしょう。
高値を付けても売れてしまう可能性だってある訳です。
納得いかないですね。
価値観が人それぞれ異なるのは避けようがないのですが、こんなことが横行してしまうようであれば、絶えず争いや揉め事を招くことになってしまうでしょう。
大袈裟かもしれませんが、人間が生きていくための最低限の秩序を保つために、ある程度の基準や線引きとして芸術作品の価値を決める材料、すなわち作品のコンセプトは非常に重要だと思います。
(ちょっと矛盾するようですが、どういう時代背景で、誰がどのような状況下で、など、作品そのもののスペックにならないものも、価値の決め手になることだってあるでしょう。)
そういう考え方こそが芸術の価値を貶めるという反論もあるかもしれませんね。
作品に価値の優劣を付けることがそもそも誤っているという見解もあるかもしれません。
しかし、コンテストで点数を付けること、作品を取引するための値段に雲泥の差が付くこと、企画展で目玉となる作品を全面にアピールして客寄せすること、等々、
私たちの社会の中での芸術の在り方や存在意義にそもそも作品の価値に優劣を与えているのは自明なのです。
説明することで「そういう意図があったのか!」と価値を高めることもあれば、「なんだ、もっと深い意図があると思ったのに・・・」と価値を下げてしまうこともあると思います。
しかし私は説明しないことでさも深い意図を秘めているかのようにすかして見栄を張るようなことはしたくないので、きっちり説明して「これ以上でもこれ以下でもない」と示したいのです。
その上で、善し悪しを決めるのは鑑賞者であって良いと思うのです。
ところで、展覧会、特に公募展などは作品が飾ってあって、その隅にあるキャプションには作品名と作者名だけが載っている場合が多く、物足りなさを感じることがあります。
作品を出展する側の人間としてはもちろんなのですが、鑑賞する側としても、興味を持った作品があっても作品名だけでは意図やコンセプトを推測するに足らず、もどかしさを覚えるのです。
そういった場でのコンセプトの掲載は少なからず需要あるとは思いますが、それに必要な労力などを踏まえると致し方ないことなのでしょう。
本当に興味があるなら続きは然るべき手段で情報を得なさい、と割り切るべきなのでしょう。
もし、そうやって私のサイトに辿り着いた方がいらっしゃれば、とても嬉しいですね。
No.003 2019/01/14 『表現するという妥協』
前回から持ち越した内容となります。
恐らく普遍的な価値観ではなく私固有の感覚なのかと思われますが、私が制作に対して常に挑戦的な意欲を持たせていると同時に、思いのまま制作をするための足かせになっているものでもあります。
「表現するということは妥協するということである。」
究極、至高、無双というのは、“現在”はもとより“未来”からそれを見ても完璧で、何一つケチの付けようの無いもののことです。
どんなに優れた芸術家であっても自身の中で100点満点の作品を創ることは不可能でしょう。
納得のいく作品ができたとしても、それを顧みて反省点が生じないはずはありません。
再び
「森の夜 ~Your Story~」を引き合いに出してしまうのですが、こちらは私が「一世一代の作品を創ろう」という意気込みで取り組んだ作品です。
(未熟者が「一世一代」なんて言うのはあまりにも傲慢ですが、当時としてはそれ以降、その作品以上に時間と気持ちを込めて作品を創ることはないだろうと思われたので。)
そうなると動けなくなるものです。大まかな構想は考えついた、さて構図はどうしようか、いや構想はこれでいいのだろうか。
深く掘り下げれば掘り下げるほど“これ以上”がある気がしてならなくなるのです。
さて取り掛かろうと支持体(ケイカルボード)を立て掛けたものの、そのまま1ヶ月程描き出せずにいました。
しかし前々回のトピックでも経緯を書いた通り、大学の文化祭で出すつもりだったので時間という制約がありました。
そのため制作にかける時間も考慮し、「これでよし!」とは思えないまま描き始めることとなりました。
これは紛れもなく妥協です。
制作を始めてからも、もっと時間をかければより質の良いものができるはずなのに・・・というジレンマもありました。
描き損じてしまうも、修正が利かず、誤魔化しつつ描き進めるような場面も多々有りました。
これらも妥協です。
一切の妥協のない作品というのは一生かけても作れるかどうか、というところではないでしょうか。
だからこそ私は思うのです。
「表現するということは妥協するということである。
妥協なき完成形が存在しないからこそ創造は美しい。」
「森の夜 ~Your Story~」の制作時に芽生え、8年以上経ちますが未だにブレることなく私に根付いている芸術観です。
そんな凝り固まった信念でやっていては、制作を楽しめないだろう、そもそも表現は考えるものではない、それじゃ半人前だ、批判的なご意見はあると思います。
しかし意識的に拭い去れるものではないのです。
数をこなして経験を積んでいくうちに割り切れるようになっていくものだと思っています。
この煩悩は私にとって1つの試練であり、ハンディキャップではなくアドバンテージだとポジティブに捉え、うまく付き合っていけたらと考えております。
No.002 2019/01/02 『表現の目的』
1ヶ月ぶりのTOPICとなりました。
引っ越し後の荷物整理に思いのほか時間を費やしてしまい、ようやく片付いてこれから制作活動に専念できるかなといった状況です。
時間配分の見積もりが甘かったこともありますが、不思議なもので会社勤務していた頃よりも1日1日が短く感じており、毎日の成果に欠乏感を覚える日々を過ごしております。
学生時代からサラリーマン時代まで集団に属していたことで満たされていた社会的欲求が欠落したことから生じるものでしょうか。
時間的余裕と社会的欲求・・・無い物ねだりになってしまうのですが、自分で選んだ道なので甘ったれたことは言ってられません。
この状況にも次第に適応してペースを掴めてゆくことでしょう。今は焦らないことにしています。
予定ではなかったのですが、この話をもう少し掘り下げて今回の本題にしてしまい、予定していた内容は次回のトピックに回そうと思います。
欲求。自己表現するというのはそれ自体欲求を満たすための行為だと言えるでしょう。
では、表現すること(そしてその手段として制作すること)が完了すれば欲求が満たされるかといえば、間違いなくノーです。
必ず次なる対価を求めることになるでしょう。承認されたい、金銭を得たいなどの社会的欲求です。
仮の話ですが、例えば制作が好きで好きで堪らない芸術家が社会から完全に隔絶された環境に置かれたら、制作活動を続けるかどうか。
私は止めてしまうと思います。
自身が他者より秀でているという自尊心があり承認を得たいからこそ、もしくは逆に、自身より秀でていると感じ目標とする他者の像があるからこそ、制作したいと思う欲求は生じるものだと思います。
自身と比較する対象がなくなってしまったら、今度は生物としての本能的な欲望に走ることになるのでしょう。
「他人にどう思われようが関係ない。自分は自分の道を究めるのみ。」という、己の中だけで完結できる高尚な精神はあり得ないと私は思います。その言葉こそ、自身の価値を高く見せて承認を得るためのファッションでしかないと考えます。
語弊があるかもしれないので弁解しておきますが、その精神は目的を遂げる(欲求を満たす)ためのプロセスとしてはあり得るでしょう。
「今はこのやり方は世間に認められていないけど、きっといずれ認められるようになるだろう。」ということです。これは綺麗事ではないと思いますし、それを体現できる人を私は尊敬します。
この人間としての社会的欲求は、私の漫画作品
「Waterfall(仮題)」の主人公の精神性に通ずるところがあるかもしれませんね。
まだ結末は決まっていないのですが、社会とは切っても切りはなせない人間らしさを描写していくつもりです。
私自身の話に戻りますが、容易には対価(承認と金銭)を得られない環境だからこそ、自身の欲求が浮き彫りになる。これはこれで面白いのではないでしょうか。
自分の心境に正面から向き合っていく所存です。
クリエイターとして、人間として、経験値も地位も卑小なのに背伸びしてヘビーなことを語ってしまったかもしれません。
傲慢に思われるかもしれませんが、私が今後道を誤らないための戒めとして掲げておきます。
No.001 2018/12/02 『固執と解放』
11/20の勤務を最後に会社を辞め、同日に本サイトを立ち上げてフリーでクリエイターとしての道を歩み始めました。
今回が1回目のTOPICとなりますので、その経緯について触れようと思います。
それを説明するにあたり、まずは入社する前に遡ることになります。
自主制作で収入を得るというのがとても現実的には思えなかったので、企業へ就職するということは大学入学前から決めていました。
それでも職種はやはり制作の分野でありたい、そのためデザインの方面に進むことにしました。
大学4年次、無事にWEB制作の部門での就職が決まり、それと同時に、残された学生としての時間の中で、以後自主制作(美術)と決別するための作品を作りたいと思い立ちました。
そこで手掛けたのが
「森の夜 ~Your Story~」です。
敢えて「無理じゃないかな?」と思う規模の構想を練りました。
就職への不安もあり、自分の限界、可能性を出来る限り伸ばそうと思ったのです。
大学の文化祭に出展することを決めていたので、取り掛かりから2ヶ月間のリミットの中、大学の授業、
卒業制作、アルバイトの傍ら、空き時間の全てをこの制作に注ぎ、相当な熱意を込めました。
出展時の完成は間に合いませんでした(なんなら今現在でも完成品ではありません)が、見せられるレベルまでには持っていけた(129時間経過時点なので、
こちらの[25]と[26]の間)というか、むしろ想像を超える出来映えとなりました。
仲間から沢山の賛辞を受け(「気が狂ったかと思った」という感想は最高の褒め言葉でした)、観覧客アンケートでも多くの高評価をいただきました。
努力が予想を超える結果をもたらした、私にとって唯一の経験と言えるかもしれません。
そこで自主制作との決別はうまくいったと思ったのですが・・・
皮肉にもその時の達成感が忘れられず、就職後も私を束縛することになりました。
その呪縛から切り離すべく、常に達成感を得ようと自分を鼓舞しながら仕事は熱心に取り組みました。
WEB制作の部門ではあったのですが、総合職的な業務内容であり、プライベートで自主制作を続けることでモチベーションのバランスをとっていました。
ここで一旦話を逸らします。
私は「好きな芸術家は?」と問われたらサルバドール・ダリと答えるようにしています。
(偏屈だとは思うのですが・・・自身の—特に他者から見た—領域を狭めることになると思い、特定の芸術家や作品を恒常的に「好き」とは言い切らないようにしています。)
サルバドール・ダリの作品を観て「時計が曲がってて面白いな」というのが率直な感想なのですが、そのタイトルが「記憶の固執(La persistencia de la memoria)」だとわかった時、強く惹き込まれました。
ご本人の意図と合致しているかはわからないのですが、「時計(時空)を歪めることで忘れ去ってしまう記憶をとどめよう」→記憶の固執 だと解釈しました。
私自身、記憶も含めあらゆる物事に固執する人間であったこともあり、勝手に共感しました。
そしてタイトルも作品の重要な要素で、場合によっては作品の質を倍増させることもあるのだと知った瞬間です。
去る今年の6月、私は30歳を迎えました。
30歳を迎える瞬間、1分1秒まで20代であることに執着しており、激しい焦燥感に襲われました。若さの固執ですね。
20代、これで良かったのか・・・その時、自分の納得できる生き方をできていなかったことを痛感したのです。
一方、会社ではそこそこのポジションにおり、順風満帆とは言えないものの、キャリアの固執もありました。
それでも自主制作への固執もあり、両立もできず・・・どうしたものか、と。
しかしちょうど、30歳になった直後会社でとある変革があり、私は退職を決心することになりました。(会社の成長には必要な変革です。会社の名誉のため。)
30歳になった(20代であることを失った)ことで固執していたものの大部分を削ぎ落とす術を身に付けられたのだと思います。
そして第一に自分が固執したいものを選択した。
以上が経緯となります。
ですが、この決意で私以外の大勢の方々に影響を及ぼしてしまったことは悔恨するところであります。
だからこそ、その方々の想いを背負って(と好都合に解釈して)私は力の限りを尽くしていかねばなりません。
今後自分が堕落せず体現できるようにするべく、オーバー気味に語りました。
手段・方法は行き当たりばったりになるとは思いますが、頑張ってゆきます。